会津若松旅行② 鶴ヶ城編 幕末から明治維新の苦境にあきらめなかった会津

あーか

2016年09月18日 21:52

会津若松から帰ってきて
雨も降っているがこっちは湿気が高いな~と感じる今日この頃



会津若松2日目の旅行は
いよいよ今回のメインテーマに近いとこへ

そもそも
幕末、当時の国内統治において
正当な支配体制であった徳川幕府と天皇のため
京都の治安維持にあたっていた会津藩

京都で乱暴狼藉をはたらき
御所へ発砲した長州藩を締め出し
正義は会津にあり、どうみても勝者は会津、長州は朝敵だったのに

1年後、まさかの薩摩と長州が手を組み
さらに偽勅説ある倒幕の密勅と勝手に作ったと言われている
錦の御旗で、薩長の西軍が官軍、幕府が賊軍となり
会津は最後、西軍に鶴ヶ城を取り囲まれ降参という

まさかのどんでん返し



2日目はそんな舞台となった鶴ヶ城へホテルからレンタサイクルでゴー

平日9時前は人もいなく、静かなとこ



2年後は戊辰150周年ということで
企画展「松平容保」開催初日



今回、城の周囲の案内をボランティアガイドさんも事前にお願いたが
どうやら綾瀬はるかさんをガイドしたこともあるベテランのよう
いろいろと話しが聴けてよかった



石垣に縦の傷みたいな線があるが
これは雨や雪どけの水は流れやすくするためのもの



八重が鉄砲をもって西軍と対峙した場所
敵との距離が思ったより近い

後ろを振り返ると天守閣が確かにドラマで描かれた距離感



眼前の大きな道路沿いには当時家老たちの屋敷

ずっと先には外堀の跡も今も垣間見えるそうな
左手の方には城に登城する大きな通路もあるが
当時、登城するには、暗号のように会津の唄を知らないといけないそうな

他藩の人は大変だな



江戸時代の前、会津藩主には蒲生氏がいたが
彼はキリシタンということで石垣等に十字架の跡

キリシタン迫害の時代や苦難の時代もあったろうが
これで救われた人もいたのかな~と思いにふける



大河ドラマで城外の敵を打つために
中から大砲であけた穴、存在してるのに驚いた



ただ見て終わるだけでなく
歴史的背景などを堪能
ガイドさんの説明を聞きながら八重の桜の場面を思い返したり
う~ん、頼んでよかった

案内してくれたガイドさん自身も当時の人物の子孫や
京都行って歴史資料探したりと、もともと歴史関係の仕事だったのか
不明だが、とても力を入れているそうな

やっぱり歴史の厚みがある史跡は面白い
幕末という時代の近さもあるが
さて、直虎はどこまで歴史の厚みがあるか

地元の人さえもあまり知らなかったのに
2014/05/29



大河に抜擢され、商業観光として利用するのは当然だが
直虎の時代の遠江の歴史、どこまで残っているのか

なお、鶴ヶ城天守閣内は観光設備も整っていて
動画やパネル等で、幕末の動乱がわかりやく解説されていた

特に悲劇の白虎隊だけでなく、大河ドラマでも扱われた
会津藩士の方々も紹介されていたが
賊軍として西軍に敗れた後、苦労したと思うが
意外にも明治政府軍の中枢や、学者、政府で活躍した人物もいる

そもそも鶴ヶ城自体、明治政府に接収された後
競売にかけられたとき、元藩士が私財で購入し松平家に寄贈された


どんな状況にあっても、めげずに前を見続けることが
大事なんだな~と痛感する

そしてそういう素質を1日目に見た日新館で培ってきたんだと思う






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